想いが交錯

今日は自分の四半世紀記念日でした。笑 ついにきちゃった、感じ。もうあんまりキャピキャピしてもいられないし、今までのモットー(のようなもの)であった刹那主義が赦されない年齢なような気がします。そんな25歳。


最近は、自分相応、年齢相応ということをよく考えます。客観的にではなく、あくまで主観的に。わたしは、「”わたし”として25年間生きてきた人間」として今、どういった行動や思考がが相応しいのだろうと。様々な経験値(測れるものでは決して無いが)や頭の中のリソースの豊かさを踏まえて、どのように振舞い、どのように生きるべきなのだろう、と。
恥ずかしながら、わたしにはわたしの看板はまだ無いと思っています。社会的に、人間的に、女性的に、周囲に対して「わたしはこうだ」と大声で言えることがまだ見つかっていないし、わからない。
それは、今までの自分の主義・理想(というほどのものではないけれど)において、そんなものを探したり身に付けようとする行動は馬鹿馬鹿しいことで、あるがままの自分自身にそんな無理やりな色づけをしても「他の誰かや何か」に対して相対的な価値であるだけであって、何の意味も無いと思っていたから。透明(=他者と比較対象にならないもの)だけが「絶対的なもの」であり自分のあるべき姿だと思っていたから。


でも、20代半ばに来た今は、生きていくということ自体、何においても相対化されるということであって、「絶対的なもの」は自分の中にだけ確固たるものとしてあればいい、と思うようになりました。それは、間違っていないと思う。わたしの中のわたしが、きちんと何かに傾くことなく直立に立っていればいいのだということ。
そういう意味で、過剰なほどに自分と向き合ったこれまでの月日は何も無駄ではなく、これまで触れることの無かった、周りの世界との相対化をこれからしていくべきなのかなぁ、と思っている。
見る必要の無いと思っていた周りの世界が、自然に眼に入ってきたような。そんな感じです。


今、とても自分がフラットでニュートラルなような。生きるということに違和感が無いということはとても気持ちが落ち着くものなのだなあ。
ようやく、ここまで来たのかな。と、少し自分の進歩を見た、25歳の今日の日。