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それでも脳はたくらむ (中公新書ラクレ)

それでも脳はたくらむ (中公新書ラクレ)

茂木健一郎さんの本は脳科学というより哲学に近くて、文体も非常に分かりやすく書かれていて読みやすい。それこそ、普段果てしなくぼけっとしているわたしの脳細胞を活性化させてくれる。何か考えたいときはおすすめです。

これを読みつつ考えたことは、カテゴリというものの無意味さ。


日本では、学校制度という自分になされる評価を否応無しに直視しなければならない組織に入った時から、例えば、算数・理科と国語・社会というその内容を両極のものと捉えられがちなそのどちらが得意か不得意かということで、文系/理系というカテゴライズを知らないうちにされているけれど、その分類を受け入れた時点で、カテゴリというものへの依存が始まっているんだなぁ、と。
依存といっているのは、この文系/理系という括りの場合、自分を擁護する為の言い訳として分類を自分の性質(=先天的なもの)と認識してしまっているんじゃないかなぁ、ということです。


わたしは、それこそ小学一年生からめちゃくちゃ算数が苦手意識が強くて(親もそう)、でも小学校に入る前から英語を習っていたり読書が好きだったせいか国語や英語が「好き」だったけれど、それだけでわたしは文系だと強く思い込んで成長してしまい、その結果高校以降は数学と理科系科目の成績たるや惨烈を極めておりましたw
でも思い返せば、数学の中でも図形や証明問題は好きだった(注:すなわち中学まで)のに、苦手だという思い込みと勉強したくなくて成績が上がらない良い訳として、「わたしは文系!」と自らでカテゴリの中に埋まっていたんだなぁと。
これ、なんというナンセンス?まぁ、思い返すから今言えることかもしれないけれど。


お勉強に関わらず、音楽のカテゴリにしてもそう思います。
中学くらいの時って、女子の間では大まかにジャニーズ好きとV系好きに分かれていて、体裁はなくとも気持ちの面でその二者はなんか対立していた気がするです。笑
そのカテゴリを引きずったまま高校生になりバンギャルになり偏った音楽生活を送りw、で、その後はだんだん世界が広がって素敵な音楽たちとたくさん出会い今ではなんだか雑食リスナーな感じですが、今思えば、感受性もエネルギーも強い十代の頃にもっと色々聞いていればなぁ!と。
自分をカテゴライズすることで自分の世界を狭めていたなんて、勿体なさ過ぎ、昔のわたし!笑


でも十代の頃は、そうやって自分の属性を自他ともに明確にして、自分の好きなものを自分の哲学とする事で(=カテゴリに依存することで)、色々な孤独感やら自己の不安定さから逃れようとしていたんだろうなぁ。
そういう意味では、あの頃にああいう音楽を聴きながら、自分というものに痛々しいくらいに向き合い、自己否定と自己肯定に直面したことが、今の自分のコアの部分を作っていると思う。その結果の善し悪しは今のわたしでは判断できないけれど。


あと興味深いのは、カテゴリが作るカルチャーというもの。
カテゴリの中では、その中にいる人も最初はカテゴリの定義については曖昧な認識だと思うんですが、次第に色々な文化が生まれていって、気づけばそれがカテゴリを凌駕していたりする。
例えば、「セレブ」というカテゴリの人達のファッションが注目されて、セレブファッションという服飾文化が日本に浸透したけれど、セレブでない人達がそれを着てもセレブファッションなわけで、セレブというカテゴリの持つ本来の意味はもう失われていることとか。


あー、どちらが先か論もあるかな、、あ、なんかわけわかんなくなってきた。というわけでまとまりないけどやめます。笑
結局は、カテゴリって、社会的利便性と群れたい精神から成り立っていることが多いのかなぁって思います。


ちなみにこの本にはカテゴリについてこんなgdgd書いていませんのであしからず。。
ややこしい話をややこしく無く書ける茂木先生はやはり素晴らしいです。わたしには無理だ。。